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墨の匂いと畳の上で、五年分の想いが溢れる背徳の一夜
本作は、書道教室の師範と門下生という関係だった二人が、門下生が教室を辞めるその日に初めて結ばれるという、背徳感と郷愁が入り混じるTL小説です。ヒロインの遠野すずが通う教室は、駅裏にあり、畳には墨の匂いが染みついています。師範の黒木春嶺とは、血縁も縁戚関係もない、ただの師範と門下生でした。
すずは大学一年の春から五年間、火曜の夜に必ず教室へ通っていました。黒木は褒めない人で、半紙を朱で直すとき以外は口をきいた記憶もほとんどありません。それでも教室のいちばん奥の席は、五年間一度も誰かに先に座られたことがありませんでした。この「誰も座らない席」という描写だけで、二人の距離感と、黒木の無言の想いが伝わってきます。
物語は、すずに名古屋への転勤の辞令が出たことで動き出します。引っ越しは五月の末、最後の稽古の日。門下生が帰ったあと、すずは教室に残ります。手伝いますとも言えないまま畳に座り続けたすずに、黒木はこう言うのです。『筆より君の背を覚えてる』。姿勢を直すために添えられていた手が、何を覚えていたのかを、すずはこの夜に知ることになります。
キャラクターの魅力と関係性
遠野すずは23歳の文具メーカー事務。一人称は「私」で、控えめで真面目な性格であることが伺えます。五年間、姿勢を直すためだと思って師範の手を受け入れていた彼女は、決して特別な関係を望んでいたわけではありませんでした。しかし、最後の夜に教室に残った行動からは、無意識のうちに何かを期待していたとも読めます。
対する黒木春嶺は49歳の書道教室の師範で、独身。すずとは血縁も縁戚関係もありません。褒めず、多くを語らない男ですが、五年間、すずの背後から手を添えて姿勢を直していたのは事実です。彼はすずが門下生でなくなることで、初めて「線を引かない」選択をします。26歳差の男が、五年間の沈黙のあとに見せる執着は、読む者の背筋を震わせるものがあります。
『筆より君の背を覚えてる』――五年間の視線が意味するもの
この言葉は、本作の核心です。師範として筆の運びを教えていたはずの男が、実は「背」を記憶していた。姿勢を直すという名目で触れていた手が、五年間ずっと彼女の背中のラインをなぞっていたということです。この一言で、これまでの静かな教室の時間が、すべて「想い」だったことに塗り替えられます。文章だけでこの切なさと熱量を表現している点が、本作の大きな読みどころです。
閉室後の教室が生む、背徳的で退廃的な空気感
閉室後の教室には、墨の匂いと畳の感触、そして隣のビルの非常灯だけが残ります。人目を気にする必要のない密室で、師範と門下生という関係が剥がれ落ちる瞬間が描かれています。この閉ざされた空間が、二人の背徳感と開放感を同時に強調しており、読者を物語の世界へと引き込みます。日常とは切り離された場所でしか交われない二人の関係だからこそ、その一夜の重みが際立つのです。
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